カズオイシグロ『日の名残り』を読んだキモオタ

オタクとしては出家と言ってもいいくらい苦しい決断、スマホタブレット類解約&売却の刑を受けて四日目。仕事の休憩時間が暇過ぎて脳みそ腐りそう…既にある意味腐ってはいるが腐りそうだったためとりあえず買った本が『日の名残り』だった。ノーベル文学賞受賞作家の作品だしはずれはしないだろうと。

 

すごい。すごい本を読んでしまった。

ちょっと検索すりゃいくらでもネタバレや魅力が出てくるのでもう普通に書くが、信頼できない語り手の物語とはこんなにも面白いものだったのかと感動した。元々本をあまり読まない非文化人なのでこういう文学的な作品を読み終えたというだけでも十分満足し感動しているところもあるのだけれど、それを差し引いてもこの本はすごい。ボキャ貧な自分の脳が憎い。

 

 

主人公のスティーブンスは現在アメリカ人の富豪にダーリントン・ホールという屋敷と共に買われ仕えていて、ある日その富豪…ファラディ様に「たまにはドライブ旅行でもしてみたら?自分の国の景色知らんなんて勿体ないよ」的なことを言われる。スティーブンスはこの時点で既に「いやイギリスのことは過去にこの屋敷であった様々な会議で本質知っとるし」とか思ってて自分が過去に凄い人(ダーリントン卿)に長年仕えたという誇りしか頭に無いのが…読了後読み返してみるととても悲しい。ああこの人は本当に執事のこと以外はてんで上手くいかない人だな…と。

スティーブンスは執事業に関してはおそらく完璧だったのだろうなあ(他の登場人物との会話を素直に受け取ればだが)。あと容姿もそこそこイケてるんじゃないかと思う、主人に借りた車乗って頂き物のスーツ着てガワは紳士っぽいとしてもおそらくそこそこの容姿が無いとあそこまで羨望されないんじゃないかな。いや容姿イケててほしいのは私の願望なんですけど。

 

スティーブンス、彼は本当に「推しが不器用だと良い」オタクにはたいそうウケが良いだろうなと思う。まあ不器用な男だ。そして色々と持ってない。ダーリントン卿という「スティーブン曰く」とても英国紳士たる方をとにかく信じ続けたという湿っぽさもグッド。少なくとも私は読んでる間ずっとスティーブンスが愛おしかった。

彼の父はとても優れた執事で晩年はスティーブンスと一緒にダーリントン・ホールで働いてたんだけど、ある大事な会議の最中に死んでしまう。その時スティーブンスは執事としての働きを優先し父の死に際を看取れず、最期に父にかけた言葉も簡素な言葉…そして重要な会議が終わった後スティーブンスが思ったのは「執事としてなすべきことをした!」ってことばかり…。もう父には会えないんだぞいいのか…。

恋愛に関してもこんな感じで、女中頭と結構いい感じになってたところで女中頭が他の男からアプローチされ求婚までされる→求婚されたというタイミングが最悪でまたも大事な会議の最中…結局おめでとうと言うだけで終わり、本当は引き留めてほしかったであろう女中頭はスティーブンスを諦め本当に嫁いで仕事も辞めた。

ただスティーブンスはこういったプライベートなハプニングが起こると結構顔に出てるらしく、主人や来客に心配されている…そういうところが彼が仕事にストイックなだけというわけではなく不器用、ある意味で周りが見えていない鈍感さであると言えるだろう。んで、そこにキャラクターとしての魅力を感じずにはいられないのだ。

歳のせいもあってか結構ミスをやらかして、その度にめっちゃ読者に言い訳してくるのがまた良い。一見デキそうに見えて実はそうでもないという…。本人は自分はまだまだ現役だと思ってるんだけど、もう現役ではないんだな~っていうのが終わりの方でやっと出てくるのがまた悲しい(美味しい)。とにかく自分にとって都合の良い解釈と言い方しかしていないのでとても愛おしい。

 

物語の要である「かつての女中頭と会う」という超ビッグイベントの内容を読者にダイジェスト気味で伝えてくるのも実に自分本位で良い。言いたくなかったというか、整理つけるのに時間かかったんだろうなあ…旅行五日目に会ってるのにその五日目のこと丸々放り投げて六日目のこと語ってくるんだもん。

でもなかなか言葉にできないのも仕方がない。かつての女中頭は「今まで何度かスティーブンスと一緒に生きる人生だったらどうだったんだろうと考えたことがあります」なんて言うし、それを言われるまでスティーブンスは自分たちが両片思いだったというか自分が女中頭にそういう想いを抱いてたんだなと気づき、んでやっと正式に失恋したんだもん。

今はファラディ様に仕えてるけど長年仕えたダーリントン卿が全てだったーもう気力無いーとか旅行最終日に出会った下僕経験ありの男に言っちゃうし…最終的には旅先の人に教えてもらった名所で夕暮れ見て今までの自分を思い返して泣いちゃうし。

本当に、本当にずっとずっと不器用な人なんだなと思う。『日の名残り』という物語の後もずっと。

 

ちょっと救いなのかなっていうのは今仕えてるファラディ様が結構寛大な人で、スティーブンス自身の老化による些細なミスは特に気にしないし優しいから彼の元でちょっとは元気出してほしい。スティーブンス自身も最後の数行でもっとジョーク勉強しようって言ったし、お先まっくらでもなさそうだからそこは安心。そして色々と妄想が広がるキモオタク。

女中頭と上手くいった世界線も妄想で保管しておくしかないけど、なんかあの二人は一緒にならなかったからこそ滾るものがある気がするなあ。

 

 

ノーベル文学賞受賞作家の作品だからという超軽い理由で選んだ『日の名残り』は正解だったというお話でした。『日の名残り』っていう和訳名もいいよね、スティーブンスが旅の最終日に見た夕暮れと、在りし日の栄光や想いが残ってるっていう意味と。

訳者あとがきでスティーブンスが旅行したのはスエズ危機の時なのに、国際問題の有様を見てきましたとか自慢しちゃうスティーブンスはそれだけは言及しなかったことについて問いかけがなされてた。そういった作品の時代背景も追ってみると新たな発見があるかもしれないなあ。